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肺がんの実父。迫りくる「そのとき」まで。


ワーキングマザー 父 母 両親 健康 病気 介護2017年12月5日 火曜日。
出張先から駆けつけたその日。

→肺がんの実父。危篤の報と出張。

私はそのまま田舎にある、父の入院先に泊まりました。

酸素マスクの音が絶え間なくシューシューと聞こえる病室で。
父は一生懸命に大きな口を開けて酸素を吸っている一方、酸素マスクにこもる自分の息が暑かったり、酸素マスクが煩わしかったりするようで、何度も何度も外そうと手を上げました。
また、時折苦しそうに体をよじりました。

そんなことが5~10分おきにあり、そのたびにベッドのそばに近寄り。
肺をさすったり、手をさすったり、酸素マスクをもとに戻したり、話しかけたり…

目を閉じているのに、全然眠れないように見える父。
睡眠導入剤の点滴もしたのに、苦しそうな姿は止みません。
眠りを超えるほどの痛みに悩まされているようでした。

そのため。
痛み止めの塩モルと呼ばれる医療麻薬も、少しずつ量が増えていきました。
父が楽になるなら…とは思いながらも、これが最期に向かっていく一歩なのだと悲しくなりました。

その晩はウトウトしながらも、眠ることが出来ませんでした。

2017年12月6日 水曜日。
出張先からそのまま田舎に帰ってきてしまったため、会社の業務も特段引き継ぎもせずに出てきてしまっていました。
田舎で泊まる用意もできていません。

やむなく、始発の新幹線で東京に戻りました。
会社にも立ち寄り、残務処理と簡単な引き継ぎだけを行って休暇をとらせてもらうことに。

そして自宅へ帰り、シャワーを浴びました。
体がスッキリしたのはもちろんですが、重たい気持ちも少しだけスッキリしました。

あとはもう、前を向くしかない。
「そのとき」はもうだいぶ近づいているのは分かっていて。

父が安心して旅立てるように。
残される母を支えてあげられるように。
私はしっかりして、前を向こうと思いました。

少し長めの宿泊もできるように準備をして。
また田舎の病院へと出発しました。

15時くらいに病室に戻れました。
塩モルの量はまた少し増えたと聞きました。

自宅からポータブルDVDプレーヤーを持ってきた私。
生前、父が好きだったバンドの音楽を父の耳元で流しました。

「分かる?」と聞く私に、うなずく父。

時折、ドラムを叩くように手を動かしたり、足を動かしたりしていました。
昔からバンドが好きだった父。
ベッドに横たわり、目も閉じたままだけど。
その音楽はきちんと耳に届いていたみたいです。

その晩も病院に泊まりました。

2017年12月7日 木曜日。
この日は、夫が夜、大事な仕事があると以前から聞いていたので。
悩みましたが、私は東京に一旦戻ることにしました。

この数日、家事育児は夫に任せきり。
本当に感謝です。

なので。
私は午後から出社し、保育園などのお迎えにも行こうと・・・

その日、病室を出るときに父の耳に向かって言いました。
「必ず戻ってくるから。お願いだから行かないで待っていてほしい。」

でも。もし言えなかったら後悔するから。
伝えたい言葉も、何度も耳元で話してから出かけました。

→肺がんの実父。最期に伝えたいこととは。

午後に出社し、たまっていた仕事を片づけ。
あっという間に保育園のお迎えに出なければならず、帰りました。

子ども達をお迎えした足で、そのまま夫の勤め先へと車を走らせ。
家族みんなで外食。
久しぶりに子どもたち3人の笑顔を見ていたら、気持ちも穏やかになりました。

そして私だけ駅で車を降りて。
最終新幹線に向かいました。

新幹線を待つホームで。
父の苦しそうな顔、母の心配そうな顔、暗い病室、シューシューという酸素マスクの音…
そんなことを思い出しながら。
さっきまでの温かな気持ちが、少しずつ冷えていくのを感じました。



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