だいぶ日にちがずれてしまいました。
この日のことを思い出すのは辛いのですが、年内には整理しておこうとようやくPCに向かいました。。。
2017年12月8日 金曜日。
東京からの最終新幹線に乗り、田舎の病院に着いたときには時計の針がまわり翌日になっていました。
病室に戻ると、午前中に見たばかりの光景と同じものがそこにはありました。
吸入用酸素のシューシューという音、病室のもわっとした暑さ、病院独特の匂い。
ベッドに横たわる父、心配そうな母。
1つだけ違ったのは父の様子でした。
酸素マスクをしている父はこれまで大きな口をあけていましたが、その口の大きさが少し小さくなったようでした。
大きな口をあけている父は苦しそうにも見えていたのですが、口の大きさが小さくなったせいか。
息苦しさから解放され、少し楽になっているように見えました。
一方で、大きな口で一生懸命に呼吸をしていたのに、呼吸を必要としなくなってきているようにも見えました。
私は複雑な気持ちで、簡易ベッドに横たわりました。
病院での寝泊りにもすっかり慣れ、あっという間に眠りに落ちました。
ふと目が覚めたのは朝5時くらいだったでしょうか。
父の方に目をやると、相変わらず眠っているようでした。
やはり少しずつ口が小さくなっているような気がしました。
ぼんやりと父を見つめているあいだに、少しずつ時間がたっていきました。
今までどおり、看護師さんは時折病室にやってきましたが、朝6時前くらいに来たとき。
何となくこれまでよりも動作に緊張感があるように見えました。
父の様子を確かめる看護師さん。
母になにやら耳打ちをします。
そしてまた病室を出て行きました。
「少し状況が悪くなってきているんだって」と母。
近くに住む姉に電話をし、なるべく早く来てと伝えていました。
これまで何度も「少し悪くなってきている」を聞いている気がするので。
まだ大丈夫なんじゃないか、と期待する気持ちが少しだけありました。
でも、私は父の口が小さくなっていくことが気になってしょうがありませんでした。
父の手を握りながら。
あっという間に時間が過ぎていきます。
30分くらい経った頃。朝6時20分くらい。
また看護師さんがやってきて、父の様子を確認しながら。
「ご長女さんはまだでしょうか」と尋ねてきました。
近所に住んでいる姉。
さすがにもう出ているでしょうと思っていたのですが。
母がその場で電話を掛けると、まだ家を出ていなかったようで。
私はなんだかこの緊迫した空気から逃げたくて。
「お姉ちゃんまだだって。のんびり屋さんで困ったねぇ」と父に話しかけました。
電話をきった母は、ベッドの反対側から父に話しかけていました。
私も、父の手を握りながら。
まだ行かないでと。
もっと仕事を頑張る私を見てほしい、成長する子供たちのことを見てほしい、と。
お願いだから行かないでと。
そんなことを祈っていました。
声にも出していたかもしれません。
涙がたくさん、たくさん、溢れました。
父は瞼を閉じていました。
そして、その閉じた目の端には、涙がにじんでいました。
ほどなく主治医の先生がやってきて、父の様子を確認しました。
そして色々な数値が止まったと私たちに伝えました。
母が思わず「え、うそでしょ?!」と言いました。
私も同じことを思いました。
これまでずっと、ドラマで見るピッピッと鳴るような心拍数の装置は病室にはなかったので。
父の指先についていた体内酸素濃度などを測定しているらしい装置を一種のバロメーターとしてずっと見ていたのですが。
それは値は低いながら、そのときも動いていたのです。
まさか、としか思えませんでした。
そして主治医の先生は改めて時計を確認し。
最後の言葉を言いました。
2017年12月8日 金曜日。
6時34分。
父は旅立ちました。
御通夜、葬儀・告別式を終えてからは、私は早々に東京に戻りました。
今日は12月28日。あれからもう20日も経ちます。
これまでと同じ生活に戻りました。
これまでと同じ「ような」生活をしている、が適切な表現かもしれません。
高校卒業以降、ほとんど父と一緒に暮らしていなかった私にとっては。
父が目の前にいないことは当たり前だったわけですが。
「会いたいと思えば会える」から「会いたいと思っても会えない」への変化はとても大きくて。
父を思い出し、涙することも多々あります。
私にとって父の存在は大きかったと痛感しています。
悲しみはとても、とても、大きいのですが…
父への一生分の感謝の気持ちをこめて。
私はこれからも幸せに生きて、家族を大切にし、父の生み出してくれたこの人生を全うしたいと思います。