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4人目がほしい!4人目不妊?再診察までの暗黒の10日間。


4人目の授かりを願うアラフォーです。

4人目への思いを強く感じてることを自覚したのが2015年の夏頃…
→4人目のこども

そしてダンナさんと話し合ったり、こじれたり…
→夫とすれ違う心。
→夫の心境変化。私の今の気持ち。

なかなか妊娠できない現実にも直面して凹んだり…
→なかなかうまくいかないものです。
→不妊かも?!焦り、不安。
→4人を育てる能力。
→ココロにふたを…

そんな中、転職したりで環境変化もあったり…
→転職活動始めました。憧れのGoogle/グーグルに応募してみる。
→ワーキングマザーの転職。転職から1年、この転職は失敗か成功か?
→4人目がほしい気持ち。 × ワーキングマザー2回目の転職。

とうとう不妊治療にも少し踏み出してみたのです…
→不妊治療への思い込み。
→不妊治療=不妊検査だ。
→不妊治療の第一歩。血液検査を受ける。
→卵胞検査を受ける。

不妊かも?と悩みながら4年が過ぎたアラフォー・ワーキングマザーの話です。

 
 
(注)ゆっくりと気持ちを整理しながら書いています。
実際の日付から遅れて書いたものです。
 
 
 
「稽留流産」と宣告されてから、次の診察日までの10日間。

■流産宣告当日

病院を出てから、車の中でひたすら泣いたのは前回書いたとおり。
せつなくて、苦しくて。

胸を去来するのは2つの思い。

1つめ。
赤ちゃんが育たず、居なくなってしまったという事実そのものへの悲しみ。

ずーっと待ってたのに。
楽しみにしてたのに。
会いたかったのに。

お願い、居なくならないで。
お願い、戻ってきて。
お願い、心臓動いて。

妊娠が分かったときの喜びを覆す。
その何十倍も大きな悲しみがどわーっと溢れていて。

こんなに泣いたのは。
実父が他界して以来。
言い知れぬ脱力感。虚無感。
 
 
2つめ。
また不妊時代をやり直さなければというガッカリ感。

つい最近検査をはじめたばかりだったし。
早々に妊娠し、結果的には不妊症ではなかったみたいだけど。
とはいえ、夫婦でただただ、期待→ガッカリの繰り返しを約4年やってきたのです。

また、これを繰り返すの?
また、この気持ちを味わなきゃいけないの?

あの、無限ループのように思える、期待→ガッカリの繰り返しと感情のアップダウン。
じわじわ感じる年齢の壁。
正直、しんどい。
 
 
 
駐車場で気持ちを落ち着かせて。
なんとか、帰宅。

そのあともぼんやり。

最低限のことだけをやって、夜にベッドに潜り込む。

その日。
ダンナさんがこどもたちに提案。
「たまにはお父さんが、お母さんの横に寝てもいい?」

五本の川の字?で寝てる我が家。
毎晩、お父さん・お母さんの取り合いで、ダンナさんの横に寝るなんて、最近まったくない。

父親の提案にこどもたちは案の定。
「やだー!!!」

そしたらダンナさん。
「お母さんはね、今日、とっても悲しんでるんだ。」

こどもたちの反対を押し切って、隣に来てくれたダンナさん。
彼の温かさに触れて、私は再び大号泣。
嗚咽。涙。鼻水。

こどもたちは多分びっくりしてるんだけど。
小3の長女は、私の背中をさすりながら。
「お母さんが頑張っているの、知ってるよ。だから嫌な人が居ても、気にしなくていいんだよ。」

なぜか。私が仕事か人間関係かで泣いているのだと思ったらしく。
彼女なりの励ましを送ってくれました。

私の足元でふざけていた小1の長男は。
無言で、私の足をさすり、さすり。
正直くすぐったくて、長男の手も冷たくてひやっとするから、やめて欲しかったのだけど。
これもまた、彼なりの優しさ。

そんなことをされてる間に。
私はいつの間にか眠りに落ちていました…
 
 
 
 
 

■流産宣告の翌日以降

まず思ったこと。

「私は生きている。」

すべての終わりのような気持ちになったけど。
私は生きている。
生きている限り、何か出来ることはある。
まだ終わりじゃない。
 
 
 
次に思ったこと。

「私の周りの環境は1ヶ月前と何にも変わっていない。」

私とダンナさんの心の中にだけ存在した、赤ちゃん。
こどもたちも、会社の人も、誰も知らない。

私には3人のこどもたちがいて、とっても幸せで。
この子たちをしっかり育てていく必要があって。
それは1ヶ月前から変わっていない。

私の気持ちの持ちようで、今の私には世界が変わって見えているだけ。
切ないけど。苦しいけど。
前を向こう。
 
 
 
病院では。
稽留流産は、ほとんどの場合、受精卵の染色体異常により起こるものであり。
母体の問題ではない。
自分を責めなくて良い。
そんな説明を受けました。

Webでも色々なところで目にしたフレーズでした。

でもこれ。
自分を責めることはなかったけど。
「自分のせいではない」一方で。
「自分には対策出来ることがない」というのがむしろ辛い。

仕事でも、課題があったら対策をたてて、改善することを繰り返してきた。
でも、これについては。
「私に出来ることはない」と言われているようで。
ある意味、辛いなと思ったのでした。
 
 
 
もっとも救いになったのは実母の言葉。

余計な心配をかけないよう、黙っているべきだったのかもしれないのだけど。
もともと、産婦人科受診日の翌日に、実家に帰ることにしていて。
そこで、妊娠を伝えよう♪と思っていた、幸せ状態の当時の私。

急転直下、どん底にいる今の私は、翌日まで帰省を迷ったけど。
何より、車を運転していく気力が湧かなくて。
直前にドタキャンの電話を掛けたのでした。

「どうした?」と言う母の声を聞いたら。
涙が溢れて。
苦しい気持ちを吐露してしまいました。

「赤ちゃん出来たって伝えに帰りたかったんだけど。
昨日診察したら、赤ちゃんの心拍見えなくて。
流産だって。」

母の息を呑む音が聞こえて。悲しい、優しい声で。
「それは切ないねぇ。」

「私もうすぐ40だし。せっかく授かったのに。もう無理だよ。」
と弱音を吐いたら。

「何言ってんの。大丈夫だよ。お母さんなんて、おばあちゃんの40歳のときの子供だよ笑」

この言葉が結構私には響いて。
今よりもずっと昔の時代、食事や医療が今よりも進んでない時代でも。
今は亡き祖母が、40歳で母を産んだという。
なんだかこのことに。

私もまだイケる!!!
とっても励まされたのでした。
 
 
 
1週間。
夜はあまり眠れない日が続きました。
特に、深夜に目が覚めてしまうのです。

また、朝が来た。
次の診察まで、まだ何日もある…
寝起きはそんな気持ちになりました。
 
 
 
それでも少しずつ、前向きに考えられるようになって。
きっとまた心拍が見えるかもしれない。
そんな期待を半分くらいは持てるようになって。
お腹に手を当てて。
赤ちゃんに話しかけたりしました。

まだまだ高温期は続いていて。
ときどき子宮収縮もあって。
私はまだ確実に妊娠してる。
まだここに、赤ちゃんがいるのだと。
私の身体は反応してました。
 
 
 
朝に父のお仏壇に手を合わせながら。
どうか。
もし、私の赤ちゃんがそっちに行きそうになっていたら。
お父さん、お願い。
まだだよって教えてあげて欲しい。
そんなことを毎朝、祈りました。

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